第3話は「30億年の寄生者」。ウイルスと人類をテーマにした物語です。(2009年6月執筆)

             

                     

 

 

 

 

 

30億年の寄生者

 

 

 

 

いったい、これからどうなるのだろう。

新型インフルエンザは? 鳥インフルエンザは?

 

   4月の下旬、メキシコで初めて発生が確認された新型の豚インフルエンザ(H1N1)は、今も世界中で感染の拡大を続けている。確認から1ヵ月が経過した5月24日の時点で、感染者は45カ国・地域で1万2022人、うち死者は86人に至った。世界中に交通網が張り巡らされた現代社会、航空機という翼を持った新型ウイルスは国境の壁を難なく越え、発達した日本の鉄道や道路を移動ルートにして、都市から都市へ、人から人へ。4つの段階に分けられたわが国の対策行動計画の第2段階(国内発生早期)を推移している現状だ。

 発生が想定されていた強毒型の鳥インフルエンザ(H5N1)に比べ、今回のウイルスは季節性インフルエンザ並みの弱毒性で、タミフルやリレンザなどの坑ウイルス剤が有効であり、感染拡大は小康状態へ向かっているとの見方もあるが、むろん楽観は禁物だ。時節が秋冬に移れば、そこには感染の蔓延期が待ち受けているかもしれない。間もなく季節性インフルエンザの流行期を迎える南半球の国々で、はたして状況はどう動くのか。旧来のウイルスと新型のウイルスが混ざり合い、病原性が高くなるという危険性も指摘されている。

  パンデミック。インフルエンザの世界的大流行に、20世紀以降の人類社会はたびたび見舞われてきた。1918年の「スペイン風邪(H1N1)」には約6億人が感染し、ヨーロッパを中心に全世界で4000万人もの人々が死亡、日本でも39万人が命を奪われた。さらに、1957年の「アジア風邪(H2N2)」、1968年の「香港風邪(H3N2)」の流行でも、それぞれ百万単位の人命が失われた。そして今、最もパンデミックが恐れられている鳥インフルエンザは、すでに250人以上の犠牲者を出しながら不気味に潜伏している。

    われわれ人類の未知なる敵として出現した、新型インフルエンザ、鳥インフルエンザ。そのウイルスは、これから何をしようとしているのだろうか? そもそも、いったいウイルスとは、何なのだろうか? それを知るために、この物語では、これから40億年の時間を遡っていくことにしよう。

 

 

生物の細胞に寄生を続けるウイルスは、

30億年以上の歴史を持つ、地球の先住民。

 

   高度に情報化された21世紀の現代社会に生きているわれわれだが、それでは地球の歴史上、最古の「情報」とは何かご存知だろうか。それは、今から40億年前に生まれた「遺伝情報」である。

   地球は46億年前に誕生し、その6億年後、太陽からの光エネルギー(紫外線を含めた放射線)が当時の地球環境に作用して「リボヌクレオチド」ができあがったと考えられている。リボヌクレオチドとは、「塩基」と、「リボース」と呼ばれる5つの炭素を持った糖、それに「リン酸」が共有結合したもので、これを材料にして生まれたのが「RNA(リボ核酸)」である。

   このRNAこそが、地球上のすべての生命の起源とされているものだ。生命の情報を持つRNAは、アミノ酸と直接に対応する。そして、みずからの遺伝情報に基いて、固有のたんぱく質を作る。すべての生物は必ずRNAを介してたんぱく質を作成するのだが、この仕組みが誕生したのが40億年前の地球上であったわけだ。「RNAワールド」と呼ばれるこの状況は、約5億年にわたって栄えたと考えられている。

 それから後、RNAとたんぱく質によって作られたのが「DNA」である。RNAよりも化学的に丈夫な仕組みで生命の連鎖を実現するこの新しい方法、すなわち「DNAワールド」が生物界の主役になったのが35億年前のことで、それが現在まで続いているわけだ。

   さて、話をウイルスに戻そう。ウイルスの構造は、たんぱく質でできた殻の中にRNAまたはDNAのいずれかの核酸が入っているという極めてシンプルなものである。そのサイズは、インフルエンザウイルスを例にとると、直径が1万分の1mm。呼吸もせず、栄養も摂取せず、二酸化炭素を出すことも老廃物を排泄することもしない。つまり一切の代謝を行うことのない存在なのだが、唯一にして最大の特性を持っている。それは、ウイルスが自身を増やせるということだ。その自己複製能力は、単独ではまったく発揮されず、他の生物の細胞に寄生することによってのみ可能となる。まさに究極の寄生体であるわけだが、この複製能力を司っているのが、ウイルス内にある核酸である。それは、前述した通り、RNAまたはDNAだ。

   ここに、ウイルスがいつ頃誕生したのかを推測する鍵がある。RNAの核酸に着目すれば、最古のウイルスは、「RNAワールド」の遺物であると考えられ、その登場は、40〜35億年前。反対にDNAの核酸を正しい手掛かりとするならば、35億年前よりも以後となる。つまり、先に生まれたのはウイルスなのか、それとも寄生の対象となる生物の細胞なのかという問題なのだが、はっきりとした結論はまだ出ていない。

   もうひとつ、生物の発生系統からの考察がある。生物界は、真正細菌、古細菌、真核生物という、3つの大きなグループに分類される。真正細菌とは普通の細菌のことであり、古細菌とは80℃以上の高温やpH3以下の高い酸性という極限の環境で増殖する細菌だ。この両者の祖先は、約40億年前に生まれたと考えられている。また真核生物とは、その後植物や動物へと進化していった系統のことだが、その誕生は20億年前とされている。これら生物界の3つのグループに属するすべての生物にウイルスの寄生が見出されていることから、これらが系統上分岐した30億年以上の昔から、共通の祖先のウイルスが存在していたのではないかという見解も出されているのである。

  人類は、地球上に最も遅く出現した哺乳類である。ネズミが6000万年前、牛や豚などが5400万年前に登場しているのに対して、直立二足歩行を始めた旧人類が出現したのは600万年前、現生人類(ホモ・サピエンス)のデビューに至ってはたったの20万年前に過ぎない。

  21世紀を生きるわれわれが新型ウイルスの出現に抱く脅威や不安は、30億年以上もの歴史を有する先住民との、存在のキャリアの圧倒的な差がもたらすものかもしれない。

 

 

先史の時代から、人類に寄生してきたウイルス。

その存在の証しが、古代より記録をされてきた。

 

   われわれ人類の歴史は、ウイルスに感染し続けてきた歴史でもある。それは、人類の出現以前に、すでに他の哺乳類にウイルスが寄生してきたからだ。狩猟採集生活の時代には、野生動物との接触の際にウイルスによる感染が起きていた。気候が温暖な地域ではジャングルに生息する猿から蚊を介して黄熱ウイルスに、寒令な地域では狼から狂犬病ウイルスに感染していたはずである。   

 農耕定住生活を始めてからは、犬、牛、馬、羊、豚などの家畜のウイルスによる感染も起きてきた。その代表的なものが、麻疹(はしか)と天然痘だ。麻疹ウイルスは8000年前に牛の急性伝染病である牛疫ウイルスに、天然痘ウイルスは4000年前に馬か牛のウイルスが人間に感染したものに由来すると考えられている。

   文明時代に移り、人類が記録というものを残すようになってからは、ウイルスの存在がその影を垣間見せるようになってきた。その最古のものは、紀元前1500年頃のエジプト王朝時代のレリーフだ。そこに彫られている聖職者の右足が痩せて縮んでいるが、これはポリオが治った後の特徴的な症状を示している。

   紀元前3世紀の古代ギリシアでは、「医学の父」と謳われるヒポクラテスが「病毒」という意味の「ウイルス」という言葉を用い、紀元1世紀のローマの学者ケルサスは、「犬が凶暴な場合にはウイルスを吸い玉で抜き取らねばならない」と記述した。もちろん当時はまだ、狂犬病がウイルスのような病原体によるものとは認識されていなかったが、ラテン語の「ウイルス」には「粘液」の意味もあり、犬の粘液状の唾液で感染することは気づかれていたのかもしれない。

    日本でも、意外な文献にウイルスの存在が影を落としている。それは、万葉集だ。西暦752年の奈良時代、考謙天皇は次のような歌を詠んだ。「この里は継ぎて霜や置く夏の野に わが見し草はもみちたりけり」。  「もみちたりけり」とは、「黄化した」という意味である。植物病理学者の井上忠男らの説によれば、この和歌はヒヨドリバナという野草が、タバコ巻葉ウイルスという植物ウイルスに感染し鮮やかな黄色になった状態を詠んだものだという。

    以上のように、古代より人間の歴史に存在の断片を残してきたウイルスだが、その正体が明らかになるには、20世紀の到来を待たねばならなかった。19世紀の後半に、コッホやパスツールを始めとする偉大な学者たちの研究努力によって細菌学や微生物学が興隆し、次々と病原菌を発見。ワクチンの概念を確立し、人類を伝染病の悪夢から解放していった。そして19世紀の末には、「すべてのウイルスは微生物である」と結論づけられたのであるが、ウイルスという病原体の存在を認識することはできても、はたしてそれがどのような姿かたちをしているのか、残念ながら誰も見ることができないままでいた。

  ウイルスは、細菌よりもはるかに小さなものだった。どんなに見たくても、見るための「眼」がまったく無かったからである。

 

 科学の「新しい眼」で、ウイルスが見えた。

それは、生物でも無生物でもない、何かだった。

 

   ウイルスの発見は、タバコの病気の研究から始まった。オランダの小さな町、ワーゲニンゲンの畑地帯で、タバコの葉に濃い緑と淡い緑のモザイク模様の斑を生じる病気が流行っていたのだ。農業試験場に勤めるマイヤーという人物は、これを「タバコモザイク病」と名づけ、病気になったタバコの葉をすり潰した液を、健全なタバコの葉にこすりつけると同じ病気にかかること、すなわちこの病気が伝染病であることを確認した。1882年のことである。マイヤーは、その病気を起こす細菌を探そうと、顕微鏡を覗いた。だが、病原菌を見つけることはできなかった。この時代、病気の原因となるものはすべて細菌であると信じられ、細菌であれば光学顕微鏡で見えるはずであるにもかかわらず。

  次いで、1892年。ロシアの生物学者イワノフスキーが、新しい実験を試みた。モザイク病にかかったタバコの葉の抽出液を、細菌を通さない素焼き陶器製の濾過器で濾過したのだ。そして陶板上に残ったものを顕微鏡で見たところ、細菌を発見することはできなかった。ところが、濾過した液を健全なタバコの葉に付けてみると、モザイク病が発症した。

    つまり、タバコモザイク病の病原体は、陶板の目をすり抜けていたのである。実際には見えなかったけれど、病原体が存在することは確かな事実であった。そこでイワノフスキーは、これを「濾過性病原体」と呼び、それ以上の追究をすることをしなかった。

   マイヤーやイワノフスキーが使用した光学顕微鏡は、残念ながら「古い眼」だった。濾過性病原体、すなわち、タバコモザイクウイルスの正体をしっかりと見定めるためには、「新しい眼」が必要であったのだ。科学の新しい眼、それが電子顕微鏡であり、研究者たちはその登場まで40年の歳月を待たねばならなかった。初の電子顕微鏡がベルリン工科大学のクノールとルスカによって開発されたのは、1931年。後の1938年に、シーメンス社が製品化した電子顕微鏡を売り出すことになる。

   そして1935年、アメリカのロックフェラー医学研究所のスタンレーが、タバコモザイクウイルスの精製結晶化に成功したのは、電子顕微鏡の発明とあいまって画期的な出来事だった。ここに至って、ウイルスという未知なる存在が科学者たちの眼下にはっきりとその正体を現せるようになったのである。

 ウイルスは、これまで彼らが知っていたどのような病原体とも異なって、非常に整った風貌をしていた。病原菌に限らず、細胞一般はウエットで柔らかく、大まかな形はあってもそれぞれが微妙に違いを持つ脆弱な球体であると捉えられていた。ところが、ウイルスは違っていたのである。それは、優れて幾何学的な美しさを有していた。あるものは正20面体のような多角立方体、あるものは繭状のユニットがらせん状に積み重なった構造体、またあるものは機械のようなメカニカルな構成。そして同じ種類のウイルスは、まったく同じ形をしており、そこには大小や個性といった偏差が無かった。

   その理由は、ウイルスが確固とした生物ではなく、限りなく物質に近い存在だからである。先述した通り、ウイルスは一切の代謝をしない。けれども、自己増殖能力を持っている。「生命とは自己複製するシステムである」との定義があるが、ウイルスの場合は、宿主となる細胞の力を借りてからこそ、それができるのである。「ウイルスは生物か無生物か」という論争が長らく続き、今でも明解な答えは出されていない。

   だが、川喜田愛郎氏が1956年に、福岡伸一氏が2007年に、それぞれ著した書籍が、半世紀の時を経て奇しくも同題「生物と無生物の間(あいだ)」となったように、ウイルスは生物と無生物の中間的な存在であると考えれば、なるほど分かりやすいとも言える。

 

 

2種類の突起で細胞に付着し、表面を切って増殖する。

それが、インフルエンザウイルスの感染システム。

 

   さて、ウイルスはいったいどのようにして、生物に感染するのであろうか。それはウイルスの種類によって異なるが、大別すると2つの方法がある。

  1つは、細胞の傷口から侵入する方法で、植物ウイルスが採用しているものである。もう1つは、細胞表面にある受容体を介して侵入する方法で、動物ウイルスや細菌ウイルスが行っているものだ。ここでは動物ウイルスの代表としてインフルエンザウイルスを取り上げ、その感染システムについて説明することにしよう。

   前にも述べたが、インフルエンザウイルスの大きさは、直径1万分の1mm。たんぱく質でできた殻の中にRNAが入っている構造をしている。その粒子の表面には、HA(ヘマグルチニン)およびNA(ノイラミダーゼ)という2種類のたんぱく質が数多く突き出している。これらの突起を使って、生物に感染するのが、インフルエンザウイルスの特徴だ。

  まずHAの突起で宿主細胞の受容体に吸着し、ウイルスの膜と細胞の膜を融合させて、ウイルスのRNAゲノムを細胞内に侵入させる。侵入したゲノムは、細胞のエネルギーを利用して、ウイルスのコピーを作り増殖させる。増殖したウイルスが細胞の外に出るときに使うのが、NAの突起だ。この突起で細胞の表面を切り、周辺にある別の細胞へとウイルスたちは向かうわけである。

  ちなみに、インフルエンザウイルスは、HAとNAの抗原性の違いによって分類され、これをインフルエンザウイルスの「亜型」と言う。HAについては15、NAについては9の亜型があり、最初の章で記した「H1N1」「H5N1」「H2N2」などのウイルスの種類は、H(HA)およびN(NA)のそれぞれの亜型を表記することで示したものだ。

  ウイルスに感染した細胞は、まさにハイジャックされた状態になる。代謝系をウイルスの都合のいいように利用されるため、細胞は正常な機能を損なわれ、ときには破壊されてしまう。ウイルスは次から次へと周辺の細胞に感染を広げて増殖を続け、そのために組織全体が壊されていき、やがて宿主は発病へ至るわけである。

 

 

人類は感染症を克服できる、という幻想。

それを打ち砕いたのが、エマージングウイルスの出現。

 

    19世紀の後半に細菌学や微生物学が進展し始め、20世紀の前半には抗生物質の開発によって細菌感染のほとんどは治療可能になり、ワクチンの開発によって多くの急性ウイルス感染の予防が可能になった。1980年には天然痘の根絶がWHOによって宣言され、「人類は感染症を克服できる」という考えが広まっていった。

   だが、それがただの幻想に過ぎなかったことが露呈するのに、さして時間はかからなかった。翌1981年、アメリカでエイズ患者が初めて見つかり、その後世界中に広がっていったのである。

   そして1993年、WHOと全米科学者協会はエマージング感染症の国際監視計画に関する会議を開き、次のような声明を発表した。「最近になって新しく出現(エマージング)、または再出現(リエマージング)した感染症が数多くある。動物や植物の世界でも同様のことが起きて、経済や環境に危険をもたらしてきている。世界全体がいまだに感染症に対して、いかに脆いかということを示したものである。人、動物、植物の感染症の地球規模での監視体制の確立が急務である」。

   20世紀の後半から出現を始めた「エマージングウイルス」を、列挙してみよう。1957年、アルゼンチン出血熱 (フニンウイルス)。1959年、ボリビア出血熱(マチュポウイルス)。1967年、マールブルグ病(マールブルグウイルス)。1969年、ラッサ熱(ラッサウイルス)。1976年、エボラ出血熱(エボラウイルス)。1977年、リフトバレー熱 (リフトバレーウイルス)。1981年、エイズ(ヒト免疫不全ウイルス)。1991年、ベネズエラ出血熱(グアナリトウイルス)。 1993年、ハンタウイルス肺症候群(シンノンブレウイルス)。1994年、ブラジル出血熱(サビアウイルス)、ヘンドラウイルス病(ヘンドラウイルス)。1997年、高病原性鳥インフルエンザ(鳥インフルエンザウイルス)。1998年、ニパウイルス病(ニパウイルス)。 1999年、ウエストナイル熱(ウエストナイルウイルス)。 2003年、SARS(SARSコロナウイルス)。2003年、サル痘(サル痘ウイルス)。2004年、高病原性鳥インフルエンザ(鳥インフルエンザウイルス)。

   上記の感染症には、エボラ出血熱の88%を筆頭に致死率の極めて高いものが含まれている。700人以上の死者を出した新型肺炎SARSの記憶は生々しく残っており、強毒性の鳥インフルエンザの蔓延は今の人類がいちばん恐れている事態でもある。そして着目すべきなのは、これらの感染症を引き起こしているウイルスの存続の場となっている自然宿主が、ネズミ、チンパンジー、オオコウモリ、カモなど、すべて野生動物であるということだ。エマージングウイルスの出現の背景には、それまで手つかずであったジャングルなどの未開の地を、われわれ人類が乱開発しているという事実があるのだ。

    さらに、動物に襲いかかるウイルスだけでなく、植物に被害をもたらすウイルスの蔓延も、深刻な問題だ。人間には感染しないものの、様々な農作物に感染してダメージを与え収穫量を激減させてしまう植物ウイルスは、食糧問題という間接的な形で、結局、われわれ人間に大きな被害をもたらすのである。

    植物ウイルスの基本的構造は、動物ウイルスと全く同じ(RNAまたはDNAの核酸と、それを覆うたんぱく質)である。だが、寄生の方法に違いがある。空気感染はせず、昆虫、線虫、菌類による媒介や、土壌、汁液、種子などを介して感染するのが特徴だ。ウイルスに侵入された植物は、細胞を次々と冒され、葉にモザイク状の模様や黄色の斑紋、褐色の斑点や輪紋を生じ、新芽の黄化、委縮、奇形などの様々な症状を引き起こし、壊死に至ることもある。

    先述のタバコモザイクウイルス(タバコ、トマト、ピーマンに感染)を始め、ポティウイルス(ジャガイモ、カボチャ、チューリップに感染)、ビートネクロティクイエローベインウイルス(テンサイに感染)、ダイアンソウイルス(カーネーション、果樹などに感染)、ブロモウイルス(大麦、小麦、トウモロコシに感染)、イネ委縮ウイルス(イネ、大麦、小麦に感染)、イネ縞葉枯ウイルス(イネに感染)、キュウリモザイクウイルス(野菜、果物全般に感染)、ジェミニウイルス(トウモロコシ、豆に感染)、カリモウイルス(ハナヤサイ、イチゴ、ダイコンに感染)など、これまでに世界中で発見されたウイルスは、1000種類以上にも上る。

   そして動物ウイルスと同じく、感染や増殖を制御するのが難しいことも、植物ウイルスという存在の持つ恐ろしさだ。人間の場合と同様に、抗ウイルス剤の投与などの対策が採られているが、いまだに的確な効果は得られておらず、新しい予防薬や治療薬の開発が待たれているのが現状だ。

  動物界、植物界を問わず、今後も新たなウイルスが次々と出現し、われわれの生命や生活を脅かすことだろう。ウイルスの歴史はあまりにも長く、人類の歴史は頼りないほどに短い。このことを決して忘れることなく、謙虚な心で自然と向き合うことが、われわれには必要なのではないだろうか。

 

 

新しい生物学の発展や、医療の研究活動にも貢献。

ウイルスは、人類の協力者という側面も持っている。

 

   「恐ろしい病気をまき散らす病原体」として、ウイルスの存在についてここまで語ってきたが、締めくくりのこの章では「人類の営みに貢献する協力者」でもあるウイルスの姿に言及しておこう。一言で述べると、それは、「生きている分子」という重要な姿だ。

    先述したように、1935年のスタンレーによる「タバコモザイクウイルスの結晶化」によって、ウイルスというものが核酸とたんぱく質だけからできた単純な化学物質であることが明らかになったわけだが、この事実に当時の科学者たちは大きな衝撃を受けた。生物だけが持っている自己増殖という神秘的な性質を、極めて単純な構造の物質が有していることに驚いたのである。

  科学者たちの心の中にあった「生物と物質の境の大きな壁」が崩れたこのときから、それまで生物学に無縁だった物理学者や化学者たちが、積極的に研究に参加するようになった。そして新しい生物学、すなわち「分子生物学」を核とした生命科学の扉が開かれ、ウイルスは生命を分子レベルで研究するための最初にして中心的な存在になったのである。

 19世紀の半ばにメンデルがエンドウ豆の実験の結果から提唱した「遺伝因子」の実体が「DNA」であることを示したのは、大腸菌に感染するウイルス(バクテリオファージ)の実験であり、それは遺伝子の発現機構の解明にも大きな役割を果たした。一方で植物ウイルスは、ウイルスの構造研究の主役となり、DNAの塩基配列をたんぱく質のアミノ酸配列に翻訳する際の遺伝暗号の研究分野でも活躍した。こうしてバクテリオファージや植物ウイルスは、1970年代初頭までの分子生物学の誕生と発展を先導したのである。

   やがて分子生物学は、大腸菌中心の時代から動物中心の時代に移り、動物ウイルスの活躍が始まる。遺伝子の形質発現の機構、すなわち「DNA→RNA→たんぱく質」という遺伝情報の伝えられ方の基本は、大腸菌でもわれわれ人間でも同じだが、それぞれの反応過程に関与している分子の形や反応の仕組みには明確な違いがあることが、動物ウイルスや昆虫ウイルスの研究によって発見されたのである。癌という難病の分子レベルの研究も、癌ウイルスの発見によって可能になった。癌遺伝子が発見され、そのもとになっている動物細胞の癌原遺伝子も見つけられた。

   20世紀の終わりからは、バイオテクノロジーという名の様々な応用技術が生まれた。その一つが、遺伝子治療と呼ばれる、まったく新しい病気の治療法である。これは、欠陥のある遺伝子の機能を回復させるために正常な遺伝子を人の細胞に導入するものなのだが、その際に正常な遺伝子の運び屋(ベクター)として不可欠なのが、レトロウイルスと呼ばれる動物ウイルスだ。今、世界中が注目しているBS細胞やiPS細胞を使った再生医療の研究現場でも、このウイルスがベクターとして活躍しているのである。

   さらに、植物ウイルスもまた、植物細胞へ遺伝子を導入するベクターとして利用され、医薬品などを生産する分子農業という分野で大きな貢献をしてくれている。このように、ウイルスの研究は、生命科学全体の発展と不可分の関係にあるのだ。

   恐ろしい感染症をもたらす病原体である、ウイルス。だがしかし、われわれの生命を救うための頼もしい味方でもある、ウイルス。両極端な顔を持つ、この不思議な存在と、いかに平和的に共存していくか。それこそが、これからの時代を生きる人間にとって、最も大きなテーマであることは間違いない。

 

 

執筆にあたり、参考(引用)にした本です。

 皆さんにも、ぜひご一読をおすすめします。

 

●「生物と無生物のあいだ」   福岡伸一 著   講談社現代新書 

●「動的平衡」   福岡伸一 著   木楽舎 

●「ウイルスと人間」   山内一也 著   岩波科学ライブラリー  

●「ウイルスってなんだろう」   岡田吉美 著   岩波ジュニア新書  

●「殺人ウイルスの謎に迫る!」   畑中正一 著   サイエンス・アイ新書 

●「最強ウイルス」   NHK「最強ウイルス」プロジェクト 著   NHK出版   

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