第7話は「天才脳の思考を探れ」。プロ棋士の情報処理能力をテーマにした物語です。(2009年10月執筆)

             

                     

 

 

 

 

 

天才脳の思考を探れ

 

 

 

 

頭脳ゲームの最高峰、日本の将棋。

その棋士たちの「思考」に、脳科学が迫っている。

 

   子供から大人まで 「脳トレ」ブームの昨今だが、なかには職業として脳を鍛え続ける毎日を送っている人たちがいる。その代表格が、将棋の棋士たちだ。

将棋を指さない方でも、羽生善治名人のことは ご存知だろう。中学3年生という 若さでプロデビューして以来、将棋界にある7つのタイトルをすべて独占するなど、今日まで積み上げてきた驚異的にして輝かしい実績と記録の数々は、あまりにも多すぎてここには紹介しきれないほどだ。39才のいまも4つのタイトルと6つの永世称号の資格を保持し、最強の棋士と誰もが認める将棋界の第一人者、ファンたちの尊敬と憧れを集めるスーパースターである。

その羽生名人を筆頭に、現在約160名の棋士たちが、それぞれに切磋琢磨しながら厳しい勝負に明け暮れているのが、プロの将棋界だ。かく言う筆者は将棋を趣味とするアマチュアの有段者ではあるが、プロの棋士と比べたら、その実力の差は 天と地ほどの開きがある。草野球とプロ野球、月1ゴルファーとプロゴルファー、素人相撲と大相撲。あえて例えれば、そんな感じになろうか。

将棋の競技人口は、現在 全国で約700万人と推計されている。才能に恵まれ、早い時期に覚え、寝食を忘れるほど夢中になり、アマチュア高段の棋力を身につけるくらい将棋の勉強に打ちこんでいる子供であれば、誰もが一度はプロ棋士になりたいという夢を思い描くだろう。だが、それは極めて狭き門である。

将棋のプロになるためには、まず 「奨励会」という養成機関の厳しい試験に合格し、同じ志を抱く幾多のライバルたちとの熾烈な競争を勝ち抜きながら昇級昇段を重ねていき、定められた年齢制限期間内に最終関門を突破しなければ ならないからだ。そうして 大半の若者たちが脱落していくなか、ほんの一握りの者(年に4人)だけが、ようやく プロ棋士としての歩みを 始められるようになるのである。10年も15年も 奨励会に在籍しながら、ついに夢を叶えられないまま 去っていった人たちも少なくない。

この苛烈極まりないサバイバルレースを勝ち抜いてきたのが、日本将棋連盟に所属するプロとして現在活躍中の棋士たちである。様々な棋戦で 激しい勝負を日夜繰り広げている彼らこそ、まさに 類いまれな天才脳を持った集団であり、さらに高度なレベルへと その脳力を鍛え続けている人々なのである。

この天才脳どうしの格闘戦に、全国の将棋ファンは魅了され、テレビやインターネットでの対局中継を観戦したり、新聞や雑誌に掲載される棋譜を鑑賞したり、対局場で催される 解説会に出かけて 臨場感に浸ったりするわけだ。だがこの数年、将棋の愛好者や関係者以外にも、プロ棋士たちの頭脳に熱い視線を注ぐ人たちが現れてきた。

それが、脳科学の研究者たちだ。幼少時からの 訓練によって 将棋に特化した 思考回路が完成している プロ棋士たちの頭脳を、最新研究の対象にしようという試みが、すでにスタートしているのである。

   「21世紀は 脳の世紀」 と言われるほど、今世紀に入ってから 脳科学の研究が 世界中で 盛んになってきた。だが、まだ未知の学問分野ゆえ、分子や細胞レベルの 研究の進展によって 「人間の記憶」のメカニズムなどについては 随分と解明が進んでいるものの、「感情」の仕組みの研究については ようやく拍車がかかってきた段階で、「思考」を探る研究は 困難で手つかずの状態が続いていた。

 この 「人間の思考」 のメカニズムを解き明かすための 第一歩として、独立行政法人 理化学研究所脳科学総合研究センター、社団法人 日本将棋連盟、富士通 株式会社、株式会社 富士通研究所による 共同プロジェクトが2007年に いよいよ始動。それが、将棋のプロ棋士の頭脳を対象にした 調査研究なのである。

 将棋は、古代インドに発祥した 「チャトランガ」 というボードゲームを起源とする。チャトランガは中東を経由してヨーロッパへ伝わり 「チェス」 となり、一方で ユーラシア大陸の各地へ伝播しながら 「シャンチー(中国)」 「チャンギ(韓国)」 「マークルック(タイ)」 など 各国特有の将棋系ゲームを生み出し、日本では 「将棋」 となって固有の発達をした。その代表的な特徴が、「取った相手の駒を 自分の駒として使える」という、他国の将棋には無い独自のルールである。

 この 「持ち駒」 のルールの存在によって、日本の 「将棋」 は 世界の将棋のなかで、最も局面の変化が複雑で難解なゲームとなったのだ。1局の対局中に可能な指し手の 組み合わせの数は、チェスが 「10の120乗」 であるのに対して、将棋は 「10の220乗」。 これは、全宇宙に存在する 素粒子の数を凌ぐかもしれない と言うから驚きである。 そして、この超絶的な世界で、己の全能を振り絞っている プロ棋士たちを支えているのが、彼らの天才脳なのだ。

 いったい 天才脳の働きとは、どのような ものなのか。 その思考とは、どのような プロセスを採るのか。それを紹介することから、今回の物語を始めよう。

 

プロの棋士たちは、「何か」 を使って考えている。

その 「何か」 は、無意識から浮かび上がってくる。

 

   医学や生理学などの分野で、脳に関する 研究解明が 遅れていたのは、ヒトを実験材料として 扱うことが困難だからである。それゆえ マウスなどの動物の脳が研究に使われてきたのだが、他の生き物とは桁違いに高度なヒトの脳の機能に迫ることが、これではできない。 しかし、技術の革新が研究者たちの念願を叶えてくれるようになった。 その代表例が、「fMRI(機能的核磁気共鳴装置)」 の登場だ。ヒトの脳に害を及ぼすことなく、リアルタイムな脳の働きを 画像で観察できる この装置は、脳科学の飛躍的な発展を可能にしたのである。

そして いよいよ、棋士たちの脳の思考を調べる実験が始まった。被験者として協力をしたのは (2009年9月の時点で)、 羽生名人を始めとするプロ棋士60人(延べ人数192人)、それに比較検討対象としてアマチュアの高段者から初心者までの 将棋愛好家96人(延べ人数180人)。

実験の方法は、将棋の ―盤 中盤 終盤 さ余棋の各局面を被験者に見せ、そこで指すべき手(正解手) を 「ごく短時間のうちに」 示させる、というものだ。 このとき被験者には、fMRI計測 (脳のどの部位を活動させているか) と 脳波計測 (いつ、どのように活動させているか) の処置が施されている。 それでは、実験開始。

結果から言おう。プロ棋士は、 全員、 ,らい泙 すべての局面で、 ごく短時間のうちに、正解手を示した。アマチュア愛好家は、高段者の人たちはともかく、全体的に不出来な成績に終わった。

お断りしておくが、筆者は別に アマチュア将棋愛好家の方々の 棋力を貶めるために、このような 実験結果をご報告したわけではない。なぜなら 自分もまた 将棋を長年の趣味とする 1人であるし、もしも被験者として この実験に参加したならば、やはり 拙い結果に終わったこと 間違い無し だからである。問題なのは、上記の実験方法の 「ごく短時間のうちに」 という 厳しい条件だ。考える時間を じゅうぶんに 与えられたならば、おそらく 多くのアマチュア被験者の方々が 正解手を示すことができただろう。

つまり、である。 この実験において 将棋のプロと アマチュアの差が明らかにされたのは、いきなり局面を見せられた、そのごく短時間後に、正解手を頭に思い浮かべることのできる 「何かの力」 の違いなのである。

実験に用いられた fMRI計測と 脳波計測によれば、被験者のプロ棋士たちは平均して、,僚盤では、局面を見てから 0.2秒後に正解手を得た。△涼翦廚 の終盤では、局面を見てから 0.9秒後に 戦いのポイントに視線を絞り、それから間も無く 正解手を探し出した。い竜余棋では、局面を見てから 1秒間ですべての駒の配置と駒の利きを把握し、4秒以内に解いてしまった。 「何かの力」 で。 その答を明かせば、「直感力」 で。

そして、この 「直感力」 を駆使した脳の働かせ方こそ、実際の対局の場において プロ棋士たちが採用している「思考」 のプロセスであり、最新の脳科学が 「人間の思考のメカニズム」 を解明する手がかりの1つとして注目しているもの なのである。 そのプロセスとは、(1) 一手ごとに刻々と変化する局面を すばやく理解し、直感による指し手の案出を行う。 (2) 局面をくわしく分析しながら、案出した指し手に 「読み」 の裏付けを行い、さらに複数の代替の指し手を案出する。 (3) 案出したすべての指し手に 「読み」 の裏付けを行い、着手可能と検証された指し手の中から 最善と判断したものを選択し、着手する。

これぞ、コンピュータには真似のできない、「直感的情報処理」 である。 量的な情報処理能力では、われわれ人間は コンピュータにまるで敵わない。けれども、質的な情報処理においては、人間の脳ならではの 「直感」 が活躍するのだ。

羽生名人は、次のように述べている。人間の持っている優れた資質の1つは、直感力だと思う。これまで公式戦で 1000局以上の将棋を指してきて、一局のなかで 直感によって パッと一目見て 「これが一番いいだろう」と閃いた手の ほぼ7割は、正しい選択をしている。 将棋では、たくさん手が読めることも 大切だが、最初に フォーカスを絞り、「これが良さそうな手だ」 と 絞り込めることが 最も大事だ。それは直感力であり、勘である。 直感力は、それまでにいろいろ経験し、培ってきたことが脳の無意識の領域に詰まっており、それが浮かび上がってくるものだ。 たくさんの対局をし、 「いい結果だった」 「悪い結果だった」 などの経験の積み重ねのなかで、「こういうケースの場合は こう対応した方がいい」 という無意識の流れに沿って 浮かび上がってくるものだと 思っている。

上記は 羽生名人著のベストセラー 「決断力」 からの抜粋だが、 誰もが認める 最強の棋士が 「直感の7割は正しい」 と語るとき、それは まさに勝負の真実の重みを持って 伝わってくる。

そして 「脳の 無意識の領域に 詰まっており、それが 浮かび上がってくるのが 直感力だ」 の洞察に至っては、もはや 希代の天才ならではの慧眼と 感嘆する他はない。 なぜなら、この本が出版されて 4年後の今年に、その「脳の無意識の領域」 が本当に見つかったからである。

本章で紹介した、プロ棋士とアマチュア愛好家を対象にした 実験。そこにおいて、fMRIと脳波計による計測が明かした、直感の謎。 その知見を求めて、次章では 天才脳を ますますクローズアップしていこう。

 

「思考」 は 「運動」 と 似ている。

棋士たちは、脳のなかで、スポーツをしているのだ。

 

   ヒトの脳は、大まかに言うと、「大脳」 と 「小脳」 と 「脳幹」 から成っている。 「大脳」は、「大脳皮質」と呼ばれる表層の灰白質と、「神経線維の束」 である白質 とに分けられる。 ヒトの脳が他の動物の脳と比べて最も異なっているのは、この 「大脳皮質」 が極めて発達していることだ。 ここでは約1000億もある 「ニューロン」 と呼ばれる神経細胞や、さらに その10倍近くも存在すると考えられている 「グリア細胞」 のネットワークによって複雑な情報処理が行われ、 知覚、 随意運動、 思考、 推理、 記憶、 さらには 感情や 心 といった高度な精神活動が司られている。

脳を背後から見て、大脳の尾側に位置するのが、「小脳」 だ。 カリフラワー状の外観をしており、 平衡、 筋緊張、 随意筋運動の調節 など、運動機能を 統合する役割を果たしている。

  「脳幹」 は、 間脳 ・ 中脳 ・ 橋 ・ 延髄 といった 器官の集合体である。 多種多様な神経核から構成されており、自律神経の機能中枢などを有し、多くの生命維持機能を担っている。

 さて、本章を 「脳のしくみ & はたらき講座」 から始めたのは、もちろん理由あってのことだ。上述をした 「大脳」「小脳」 「脳幹」 のうち、棋士の 「直感」 と深く関わっているものが見つかったのだ。どれだか、お分かりだろうか。

 答は、「小脳」 である。 fMRI と 脳波計 を使った 実験の最中に、 プロ棋士だけでなく、アマチュア愛好家にも、小脳の活動が確認されたのである。 ヒトの脳のなかで 「運動機能を統合する」 役割を担うことで知られる小脳 という器官が、どうして 「直感」 という 「思考」 に関与しているのだろうか。

 まず、小脳本来の働きについて説明しよう。例えば、自転車の乗り方を覚えるときのことを 思い浮かべていただきたい。最初のうちは 何度も転びながら、手足の動きをつねに意識して 練習をするだろう。ところが乗り方を覚えてしまうと、もはや意識をしなくても 上手く乗れるようになる。それは、手足をこう動かせば 自転車はこう動くという予測を、小脳ができるようになるからだ。

 小脳が行う 予測について、 もう1つ例を上げよう。 野球の打者が、バットを構えた。 相手の投手が、ボールを投げた。 ボールが捕手のミットに収まるまで、たったの 0.2秒だ。 ところが 人間が目で情報をとらえて 行動を起こすまでには 0.1秒以上かかるので、 この打者は ボールが半分くらいまで来たところで バットを振り始めなければ間に合わない。その時点でボールがどこに来るかを小脳が正確に予測しなければ、ヒットやホームランは打てないのだ。

 もちろん 自転車や野球だけでなく、 運動全般において、 小脳は重要な予測を行っている。 そして、このような小脳の機能は、運動だけでなく 「思考」 においても働いているのでは ないだろうか と考えたのが、 小脳研究の世界的権威で、 理化学研究所 脳科学総合研究センターの 特別顧問を務める、 伊藤正男博士だ。

  「直感には小脳が行う予測が重要である」 と、かねてより 伊藤博士が唱えていた 「小脳仮説」 が、今回の実験結果からも裏付けられたわけである。

博士は、次のように述べている。 大脳皮質で起きていることは人間の意識に上ってくるが、それ以外の 小脳や脳幹で起きていることは 意識に上ってこない。 脳内では、無意識の状態でも、たくさんの情報処理が行われている。 運動では、最初、大脳皮質を使って 意識的に手足を動かして、上手くいったかどうかを確認しながら 練習をする。 そして 練習を重ねるうちに、手足の模型のようなものが、大脳皮質にできてくる。それが 「メンタルモデル」と呼ばれるものだ。大脳皮質にメンタルモデルができると、当初はそれを使って予測をするが、ある段階でそれが小脳にコピーされる。 すると、その 「内部モデル」 を使って、小脳自体が予測をするようになり、意識をしなくても手足が正確に上手く動くようになる。 大脳皮質のメンタルモデルが小脳に移されることによって、意識から無意識への移行が行われるわけである。思考は、モノを動かすという点で、運動と似ている。運動では手足を動かすが、思考では イメージや概念を動かす。 そして運動の場合と同様に、思考でも、最初は大脳皮質にメンタルモデルができる。 大脳皮質の後ろ側にある 頭頂 ・ 側頭連合野にイメージや概念が記憶されていて、 それを前側の 前頭連合野が動かす。それが意識的な思考である。そして、いろいろ思考しているうちに、概念やイメージのモデルが頭頂 ・ 側頭連合野から 小脳にコピーされ、無意識のうちに 内部モデルを使って 小脳自体が予測をするようになる。 つまり、直感的に答を出すようになるのである。

 今回の実験では、小脳の他に、プロ棋士でのみ活動している脳の領域が見つかった。それは 「大脳基底核」 と呼ばれる、大脳皮質 と 視床、脳幹 を結びつけている 神経核の集まりである。ここは 「情報の選択装置」 ではないかと、 伊藤博士は考えている。 大脳皮質は、同時にいくつもの活動指令を出している。しかし、それらをすべて実行していたのでは、支離滅裂になってしまう。

 そこで、大脳皮質からの特定の活動指令だけ、抑制を外して実行させる。 それ以外の指令は、抑制する。 そのような 「選択」 を行う仕組みが、大脳基底核にあると 考えられるわけだ。

  「大脳基底核が 選び、小脳が 答を出す」。 これこそが、プロ棋士たちの 天才脳が 無意識のうちに行っている、「直感の閃きのメカニズム」 なのである。

 

 チェスもオセロも、世界チャンピオンが負けた。

いま人工知能が挑んでいるのは、将棋の棋士たちだ。

 

   さて、「量的な情報処理能力では 人間はコンピュータにまるで敵わない。 けれども質的な情報処理においては人間の脳ならではの直感が活躍する」 と、筆者は前々章で述べた。この 「量的な情報処理能力」 に人間が打ち負かされる事件が、1997年の5月に、チェスの世界で起こったのである。

最強のチェスプレーヤーの誉れ高い世界チャンピオン(グランドマスター)である ロシアの ガルリ ・ カスパロフが、 IBMが 開発したスーパーコンピュータ 「ディープ ・ ブルー」 に敗れたのだ。 その対戦結果は、6戦して コンピュータの 2勝1敗3引き分け (チェスというゲームには 引き分けが多く、 強者どうしの対戦では 60〜70%が引き分けに終わる) と いうものだったが、人間の知性の象徴とされていた チェスの絶対王者が 機械に負けたという、 驚くべき、 かつ ショッキングな出来事は、 世界中に大々的に報道された。

コンピュータ (デジタル電子計算機) という機械は、1940年代の前半に、アメリカで 数種類のものが開発された。 どれが 「世界初」 かには 定義上の諸説があるが、なかでも有名な 「エニアック」 は、約17000本の真空管を 演算素子やメモリに使用するなど、 その総重量は30トン。 倉庫1個分のスペースを設置に要する、大がかりなものだった。 これら黎明期のコンピュータは、第二次大戦中の軍事目的 (暗号解読や弾道計算など) で開発されたものだったのだが、戦争が終わり、1950年代に入ると、コンピュータを使った 新しい研究が行われるようになった。

それが 「人工知能」 であり、その研究題材になったのが 「チェス」 というわけだ。初めて、1局を通してチェスをプレーできるプログラムが作られたのは、1958年のこと。 しかし 当初は人間相手にまったく勝負にならず、ある程度互角に戦えるようになるまでには 20年以上の歳月を要した。

その後、ハード面での急速な進歩に伴って、コンピュータ ・ チェスの実力はぐんぐん伸びていき、ついには世界チャンピオンの力をも凌駕してしまったのである。 そして、さらに コンピュータの進化の著しい現在では、パソコン用の市販のチェスのゲームソフトでも 人間の世界チャンピオンと対等に戦えるレベルにあると言う。チェスの愛好家たちにとっては、 最強の先生に いつでも手軽に レッスンを受けられる時代になったわけだが、人間の知性の象徴の1つが 完全にコンピュータの軍門に降ってしまったのは 哀しい話でもある。

人間がコンピュータに敗れたのは、チェスだけではない。1997年の8月には、オセロの世界チャンピオンである日本の村上健 氏が、 「ロジステロ」 という名のソフトと 6番勝負を行い、全敗を喫した。さらに、連珠 (五目並べ)やチェッカー (西洋碁) なども、すでに人間がコンピュータに勝つことが不可能なゲームになってしまっている。

最初の章で記したが、1局の対局中に可能な指し手の 組み合わせの数が、チェスには 「10の120乗」 もある(ちなみに、チェッカーは10の30乗、オセロは10の60乗)。 ゲームにおけるコンピュータの思考のメカニズムについては次章で述べるが、この天文学的な数字を秘めた 勝負の場で、 世界チャンピオンの カスパロフに勝った「ディープ・ブルー」 は、1秒間に 2億手を読み、 3分間で 14手先までの すべての手を読むことができる という、とんでもない能力を持っていた。 まさに 「電子計算の力」 に、 人間は敗れたのである。

そして 新たな研究題材として、いま人工知能の研究者たちが挑んでいるのが、日本の将棋なのだ。1979年に最初のコンピュータソフトが開発され、83年には市販の将棋ソフトも登場した。だが、開発の開始から20年近くが経過した 90年代の半ばになっても、アマチュア初段程度の棋力にしか 達することができなかった。 「持ち駒」 という独自のルールによって、チェスを遥かに凌ぐ 「10の220乗」 という超絶的な指し手の組み合わせの数を持つ将棋の世界は、たとえコンピュータと言えども、生易しい舞台ではなかったのである。

ところが、そこからが凄かった。プログラマーの 日夜の研鑚努力と、 ハード自体の計算能力の ハイペースな向上とが相まって、コンピュータ将棋はみるみるうちに強くなっていったのだ。2002年には アマチュア4段、 2005年には 同5段レベルの棋力を獲得。1990年から毎年開催されている 「世界コンピュータ将棋選手権」 において2度の優勝を飾った最強ソフトの1つ 「激指(げきさし)」 が、 各都道府県の代表選手たちによって 毎年競われる「アマチュア竜王戦」 の 2005年度の全国大会に特別出場し、なんと ベスト16まで勝ち上がるという 快挙を成し遂げたのである。

そして3年後の、2008年。コンピュータ将棋のさらなる進撃は、人間にとって恐怖の色合いを帯びてきた。この年の5月に開催された 「第18回世界コンピュータ選手権」 において、 「激指」 が3度目の優勝を成し遂げ、準優勝の 「棚瀬将棋」 とともに、アマチュアトップ選手との エキシビション対局を行ったのだ。 「激指」 の相手は S氏、「棚瀬将棋」 の相手は K氏。 アマチュアでも、全国大会の 優勝経験の豊富な このクラスになると、プロ棋士との対局に勝利することも 珍しくはない。 とりわけS氏は、プロとの公式戦において勝ち越しているという 現在最強のアマチュア選手だ。 将棋ソフトがどこまで健闘できるかが 注目されたが、 なんと結果は、 両方とも ソフトの勝ち。翌日の新聞各紙には 「人間、コンピュータに敗れる」 の 見出しが躍ったのである。

これほど急速に強さを増しているコンピュータ将棋であれば、プロのトップ棋士に勝てる日も そう遠くないと思われる方も多いだろう。将棋関係者たちの間で ささやかれている、いわゆる 「Xデー」 の到来だ。2007年の3月にトッププロの1人である渡辺明竜王と 将棋ソフト 「ボナンザ (前年度世界コンピュータ選手権で優勝) 」 の公開対局が行われ、話題を集めた。結果は、渡辺竜王が勝って貫禄を示したが、敗れたソフトも善戦をした。プロ棋士とコンピュータ将棋の対戦は、現在まで この1局が行われたのみである。

はたして、 「Xデー」 は来るのか。 その足音が高くなっていることは、 少なくとも事実であるが。

 

 

そしていま、コンピュータが

人間ならではの能力を、獲得し始めている。

 

   チェスを制覇し、いまや将棋のトッププロ棋士に迫ろうとしている、コンピュータ。 高速で膨大に読む 「量的な情報処理能力」 に優れたこの機械は、いったいどのような思考の方法を採っているのだろうか。

対局中の、 ある局面で、 どの手を指すのが最善かを コンピュータに判断させることを 「探索」 と言う。この「探索」 の方法は、2種類に大別される。

まず1つ目は、 「全幅探索」 と言う方法。これは、コンピュータ ・ チェスの分野で ポピュラーな手法で、 「しらみつぶし型探索」 とも 呼ばれる。それぞれの局面において、指すことが可能な手を、可能な限り読み、 それらの中から 最良の手を見つける探索法だ。 コンピュータには人間のような 「直感」 が無いので、見通しを持って手を絞ることができない。それゆえ、局面の隅から隅までを 1つ1つ、文字通り 「しらみつぶし」に読んでいくのであるが、この方法では最善手を探し出す確率が高くなる反面、計算に時間がかかるという欠点がある。「ディープ・ブルー」が 世界チャンピオンに勝てたのも、1秒間に 2億手を読めるという、当時では 最高速の計算能力を 持っていたからだ。

そして2つ目が、「選択的探索」 と言う方法。すべてを読んでいく 「全幅探索」 に対して、明らかに無駄と思われる手や 見込みの無い手はできるだけ無視をし (専門用語で 「ゲームの木の 枝刈り」 をし)、指し手を絞って 深く読んでいく探索法だ。チェスよりも複雑で難解な将棋の分野では、こちらの 「選択的探索」 が主流を占めてきた。だが、この方法では 計算時間を節約することができる反面、重要な手を見逃す可能性も高くなる。 前章でふれたソフト 「ボナンザ」 に採用された 「全幅探査」 の優秀性が、将棋の分野でも見直されてきているのだ。

また上記の他に、プロ棋士などの棋譜から統計情報を取ることによって 指し手を絞り込む 「実現確率探索」 と言う方法もある。アマチュアトップの 2人を破った 「激指」 が採用しているのが、この探索法だ。

指し手の探し方は分かったが、ではコンピュータはどのようにして 「この手が最善」と判断するのか、と問いたい読者もいらっしゃるだろう。その答は、こうだ。 コンピュータ将棋では、「有利 ・ 互角 ・ 不利」 などの状況を把握するために、局面の形勢を 数値で得点化して表す。駒の損得はどうか、 駒の働き具合はどうか、 王様の安全度はどうか、 次の手番はどちらかなど、 あらゆる要素を数値化し、 それらを 「評価関数」 というもので計算して、最終的に局面ごとの形勢を 「評価値」 という得点として割り出すのだ。得点がプラスであれば 自分が有利、マイナスであれば不利、ゼロであれば互角。 同じプラスでも、数字が大きいほど有利さの度合が増す。そして、先読みをした局面の評価値が最も大きくなる手を、「この手が最善」 と コンピュータは判断するわけである。

実は、あなたがこの物語を読んでいる、その最中にも、コンピュータ将棋が 着実に強くなっていることを ご存知だろうか。 それは、コンピュータが 「自分自身で」 勉強をしているからである。 「機械学習」 と呼ばれる この技術は、 人工知能の分野で広く活用されている手法で、 これまでに発表された プロ棋士の対局を主体とする 棋譜や詰将棋など 膨大な量のデータを入力されたコンピュータが、それらを学習材料とした 将棋の実戦の中で、 指し手や 形勢の良し悪し、詰むか詰まないかなどを 学んでいく 「自動学習」 である。

ハード面での性能向上に加え、 このような プログラミング技術の進歩によって コンピュータ将棋は 飛躍的な強化を 続けているわけだが、 とりわけ着目すべきなのは 「詰み」 の領域だ。すでに 詰将棋においては、どんなプロ棋士も コンピュータには敵わない。 どれほど 難解な問題を出されようが、高速の 「しらみつぶし」 の計算によって、コンピュータは解いてしまうからだ。 現在で 最も手数の長い詰将棋は 「ミクロコスモス」という名の1525手詰めの作品 (この長さを通常の将棋の対局に換算すると10局分以上もある) であるが、いまのソフトは、これを ノートパソコンでも 1時間あれば解いてしまう。 これこそ コンピュータの 「量的情報処理能力」 の 独壇場であるから、別に驚くにはあたらない。

驚くべきなのは、 「機械学習」 によって、 コンピュータ将棋が 「人間の直感のようなもの」 を 得つつあるという現実である。

最強のコンピュータ将棋の1つである 「激指」 では、これまでは計算時間の 30%を 「詰み」 の判定に費やしていた。 これを減らし、他の多くの局面に振り向けることができれば、将棋がもっと強くなれる。 そして 「機械学習」が、これを可能にした。 最終盤の局面で、 しらみつぶしの計算ではなく、「なんとなく詰みそうだ ・ 詰まなさそうだ」の判断を、1マイクロ秒 (100万分の1秒) で コンピュータが行い、なんと8割の正答率を得るようになったのだ。これこそ、「極めて直感のようなもの」 であることは、間違いない。

だが、それがプロ棋士のみならず、人間の誰もが 多かれ少なかれ持っている 「本物の直感」 なのか 「直感の類似物」 であるのかは、たいした問題ではないだろう。 どんなに人間の思考に近づこうが、コンピュータは人間によって作り出された 便利な道具に過ぎないのだし、その道具が 知的に進化を遂げることによって、人間社会のために より良い貢献をしてくれるのであれば 大歓迎だ。

今回の物語の始まりから紹介してきた、将棋のプロ棋士の思考を対象にした共同研究プロジェクトは、「人間の脳のように 直感的情報処理のできるコンピュータの開発」 を主目的の1つとするものだ。その開発の実現がいつの日になるかは分からないが、その手がかりが得られつつあるというのが 現状だろうか。

人間のような知性を持ったコンピュータが、人間の幸福な世の中を作るために活躍する。 そんな未来の訪れることを、 願ってやまない。

 

                執筆にあたり、参考(引用)にした本です。

 皆さんにも、ぜひご一読をおすすめします。

 

●「ここまで解明された最新の脳科学  脳のしくみ」   Newtonムック   ニュートンプレス

●「先を読む頭脳」   羽生善治 伊藤毅士 松原仁 著   新潮社

●「決断力」   羽生善治 著   角川oneテーマ21   角川書店  

●「ボナンザVS勝負脳」   保木那仁 渡辺明 著   角川oneテーマ21   角川書店        

●「コンピュータと勝負する」   内藤國雄 著   神戸新聞総合出版センター 

●「将棋の来た道」   大内延介 著   めこん

●「女脳  ひらめきと勝負強さの秘密」   矢内理絵子 茂木健一郎 著   講談社

●「理研ニュース  2009年9月号」   独立行政法人 理化学研究所

●「将棋世界  2008年7月号」   社団法人 日本将棋連盟 

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